コートールド美術館展にいってきました

自らの意志で行った初めての美術館かもしれない。

 

絵に関する十分な教養を持っていない私は、これまで美術館を敬遠してきた。

しかし、大学生活もあと4か月。

「学割」が惜しく、とりあえず美術館に行こう!と、適当に選んで行ったのが今回である。

 

この展覧会は、印象派の画家の絵のうち、コートールドという人物がコレクションしていた作品を集めたものである。

このコートールド美術館展、すごいのは、研究者による考察や知識がきちんと絵と併記され、0からでもかなり楽しめてしまったのである。

(そもそも美術館ってそういうもんなのかな?あまりにも無知)

 

特に感銘を受けたものをいくつか紹介する。

・モネ「アンティーブ」

どこか天橋立の松を思わせるような景色。1本の木と海が描かれている。

人工物には西洋と東洋の違いが出るけれども、景色は普遍的なんだな、などと思った。

※後で知ったが、富嶽三十六景インスパイアらしい。そりゃ日本感漂うわな。

 

セザンヌ「カード遊びをする人々」

机も傾いているし人物もどこかアンバランスだな…と思ったら、これはわざと崩されたものらしく。本人によって、同じ絵を「正しい」構成で描かれた版も横に比較のため掲載されていた。

発表された版のほうは、解剖学的正確さよりも全体の構成を優先した、と考察されているそう。

…なんということなんだろう、

写実的であることだけが絵ではないということを目の当たりにして、一気に絵に魅了されてしまった。

 

 

セザンヌ「キューピッドの石膏像のある静物

ピカソほどのカオス感がないのは、ひとつひとつの要素が写実的に描かれているから。

しかし、それらの要素がてんでばらばらに配置されている。

美術館で本物を見てよかったのは、それぞれの絵が意図をもって描かれたということを強く意識することができる点である。

意図的に構図の崩された絵の美しさを、かじり始めてしまったかもしれない…。

 

と、全作品が収録された本を購入寸前まで行くぐらい楽しんでしまった。

(重いので買わなかった)

しかし、本当に知識が併記されていた「から」楽しめたのか?とも思う。

 

というのも、私が美術館を出たときの感覚が、滝を見た後に似ていたのである。

私は滝に対してとても感覚的に向き合う。

鑑賞していると体に水が入ってくるかのように感じ、やがて体中に新しい水が満ちていき、中身が入れ替わるような感覚。

今回のコートールド美術館展でも、これに似た、体中が新しいもので潤うような感じを覚えた。

 

絵を鑑賞することを、私は無意識にも高尚なものとして見すぎていたのかもしれない。

今回、絵を鑑賞することが頭を使うものである以上に感覚を癒すものであると気づくことができた。

これからは、知識をつけつつ、絵を見る機会を作っていきたい。