人間みんな子ども

ある日、ミスドで勉強していると、

近くに幼稚園でもあるのか小さい子どもがたくさん来たことがある。

 

子どもたちは、口々にわがままを言う。

椅子に座らないし、親の胸にしがみつく。

人が多くて怖いのか、親の足元に隠れる子もいる。

声の大きさを調整しないし、泣きたいときに泣く。

ドーナツをこぼしながら食べる。

ねだって買ってもらった食事を残す。

親が目を離したすきに物を落とす。

 

そんな子どもたちを見ていて気づいたのは、私も結局中身はそうだということ。

理性という殻をかぶってはいるけれども、

ただ不快だというだけで泣きたいし、

わがままを言いたいし、

人混みはこわいから隠れたい。

ウキウキして買ったものも全部食べられるとは言ってない。

 

そう考えたら、そういうことを全部コントロールしてる自分すごくない!?

あのむかつく人も、ゆーて人前で泣いてないし隠れてないからすごい、

ちょっとぼろが出ているぐらい許せるわ、、

 

という気持ちになった。

定期的に「人間みんな子ども」と唱えていきたい。

 

ゴッホ展へ行ってきました

美術館第二弾、ということでゴッホ展へ行った。

一昨日のコートールド美術館展の記憶が新しいまま見ることができたのがよかった。

ゴッホ展は、ゴッホの絵画が時系列で並べられているだけではない。

絵画と同時期にゴッホが友人や弟とやり取りしていた書面と一緒に掲載されていたり、ゴッホが影響を受けた画家の絵画も展示されていたりと、ゴッホへの理解が深まる展示になっていた。

 

ゴッホの、初期の絵を見てまず驚いたのは、その平凡さだ。

芸術のなんたるかが分かっていない私が言うのも本当におこがましいが、あまりに平坦で乱雑。

勉強を重ね、画家仲間に技術を教わり、自身のこだわりの主題も見つけていくものの、

様々な画家に影響されることを繰り返すため、画風には揺れが見える。

その揺れの幅の大きさには、ゴッホの絵への信念以上に、焦りや見栄といったものが見え隠れする。

友人のラッパルトに、「ジャガイモを食べる人々」を「動き(の表現の仕方)を勉強したらどうだ?」と酷評された際も、自分のこだわりのポイントなどを言い返すのではなく、「時間がなかったのにこれだけの手間をかけたんだ」という反論をしているところにも、自身のなさが表れている。

今日ゴッホをちょいかじりしただけマンのただの感想だが、ゴッホには、静的な物を、そこに打ち付けてとどまらせるかのように描く筆運びという強みがあると思う。

それなのに、ラッパルトに言われっぱなしになってしまったのは、もしかすると自分の強みを理解することもままならなかったからなのかもしれない。

 

やがて、ゴッホは精神病(展示の原文ママ。英語版ではpsychological breakだったかな…?)にかかり、療養院で療養したという。

それと同時に、画家の友人との関わりが少なくなった。


そこから、ゴッホの画風の揺れは少なくなり、あの糸杉で有名な画風に収束していく。

私の感想だが、人と比べることを辞めてようやくゴッホ自己実現できたのではないだろうか。

今回の展覧会の絵の数々から、彼がしんどい人生を送ったのだということは容易に想像がついたが、自己実現で生涯を締めくくることができたことを推察し、勝手に安心した。


それに、画家の性格を念頭に絵を鑑賞するとより深く絵を理解できるような気がしたので、今後勉強する際はその方面の情報収集にも力を入れたい。

(常に、確証バイアスに陥らないようフラットであることを心掛けつつ…。)

コートールド美術館展にいってきました

自らの意志で行った初めての美術館かもしれない。

 

絵に関する十分な教養を持っていない私は、これまで美術館を敬遠してきた。

しかし、大学生活もあと4か月。

「学割」が惜しく、とりあえず美術館に行こう!と、適当に選んで行ったのが今回である。

 

この展覧会は、印象派の画家の絵のうち、コートールドという人物がコレクションしていた作品を集めたものである。

このコートールド美術館展、すごいのは、研究者による考察や知識がきちんと絵と併記され、0からでもかなり楽しめてしまったのである。

(そもそも美術館ってそういうもんなのかな?あまりにも無知)

 

特に感銘を受けたものをいくつか紹介する。

・モネ「アンティーブ」

どこか天橋立の松を思わせるような景色。1本の木と海が描かれている。

人工物には西洋と東洋の違いが出るけれども、景色は普遍的なんだな、などと思った。

※後で知ったが、富嶽三十六景インスパイアらしい。そりゃ日本感漂うわな。

 

セザンヌ「カード遊びをする人々」

机も傾いているし人物もどこかアンバランスだな…と思ったら、これはわざと崩されたものらしく。本人によって、同じ絵を「正しい」構成で描かれた版も横に比較のため掲載されていた。

発表された版のほうは、解剖学的正確さよりも全体の構成を優先した、と考察されているそう。

…なんということなんだろう、

写実的であることだけが絵ではないということを目の当たりにして、一気に絵に魅了されてしまった。

 

 

セザンヌ「キューピッドの石膏像のある静物

ピカソほどのカオス感がないのは、ひとつひとつの要素が写実的に描かれているから。

しかし、それらの要素がてんでばらばらに配置されている。

美術館で本物を見てよかったのは、それぞれの絵が意図をもって描かれたということを強く意識することができる点である。

意図的に構図の崩された絵の美しさを、かじり始めてしまったかもしれない…。

 

と、全作品が収録された本を購入寸前まで行くぐらい楽しんでしまった。

(重いので買わなかった)

しかし、本当に知識が併記されていた「から」楽しめたのか?とも思う。

 

というのも、私が美術館を出たときの感覚が、滝を見た後に似ていたのである。

私は滝に対してとても感覚的に向き合う。

鑑賞していると体に水が入ってくるかのように感じ、やがて体中に新しい水が満ちていき、中身が入れ替わるような感覚。

今回のコートールド美術館展でも、これに似た、体中が新しいもので潤うような感じを覚えた。

 

絵を鑑賞することを、私は無意識にも高尚なものとして見すぎていたのかもしれない。

今回、絵を鑑賞することが頭を使うものである以上に感覚を癒すものであると気づくことができた。

これからは、知識をつけつつ、絵を見る機会を作っていきたい。

 

本屋

本屋で本を選ぶとき、「本屋に本を選ばされる」という感覚になるときがある。

 

本屋は、それぞれ本の並べ方に個性がある。

文庫の種類ごとに並べてある本屋、著者ごとに並べてある本屋。

平積みが多い本屋、少ない本屋。

 

そんな中で、本屋に一歩足を踏み入れた瞬間「うわあ、キラキラしてる!」と感じる本屋がある。

平積みされた本から放たれる色合いに新鮮味があり、装丁同士が引き立てあっているような感じがする。

そんな本屋に入ったとき、同時に「今日は買わされるな」と思うのである。


(ちなみに、キラキラ感の正体は、現在の私の仮説としては「平積みされている本のうち新しい本の割合が高いこと」である。)



私の本の買い方は、基本的に「パケ買い」と「著者買い」。

気に入った装丁の本を読んでみて、その著者が気に入れば同じ著者の作品を掘っていくという形である。


必然的に、時間のある時は、まず「パケ買い」の対象を探してから、馴染みの作家の棚へ移動するという周り方になる。

そして、「パケ買い」を楽しむ時間の割合が大きいほど楽しい。

だから、その「キラキラした」本屋の方が楽しく感じられるのである。



いい本屋に出会えれば、よりいい本に出会える可能性が高まるような気がしている。

これが、「本屋めぐり」をする醍醐味であろう。

 

自分の価値

自分で自分の価値を認識すると言うのは、すごく難しい。

 

自分は、何か客観的に見て分かる成果を上げることで、その難しい作業を何とかこなすようにしてきたのだと思う。

そのことには全く自覚的ではなく、むしろそれをし続けてきたからこそ、勝手に「自分は自己肯定感の高い人間だ」と感じてきた。

しかし、反対に言えば、何も成果が上がらないときや成果につながる行動ができていないとき、どうしようもなく自分が無価値な人間に思えてくる。

これは、広く深い海の中で必死に泳ぎ続けているみたいだ(泳げないのだが…)。

泳がなければ沈むけれども、このまま永遠に泳ぎ続けることができるのだろうかと不安になる。

 

最近自分の中で頑張ってきた一つの仕事を終え、燃え尽きているだけなのかもしれないが、今すごくそのフェーズにいる。

確かに、過去にも大変な課題を終えた後にやることが急になくなると「もっとくれ」という気持ちになっていたことがあることにも思い当たった。

 

正直、また別のやるべきことを見つけて、またそこで泳ぎ続けることを選択するのは、それはそれでありなのかもしれない。

一度うまくいき始めてしまえば、そのあとは常に自分が成果をあげられるフィールドを選び続ければいいからである(実際にそうやって生きてきた人間である)。

 

しかし、ここで考えを改めればもしかすると生きやすくなるのかもしれないと思う。

自身の評価を気にしすぎる特徴がこの考え方の根源にあり、そしてこの特徴は私の中で様々な悪いことをずっと引き起こし続けてきた(もちろん、単に「評価が気になる」ことによって人よりも自分を律することに長けているなどのメリットが見えていないわけではない)。

 

Twitterや対面で人に相談してみると、無意識に自分の価値を認めることができている人が多いように思った。

また、人権があることをもって・経済をまわしていることをもって・(解釈するに)死と比較して、生きているだけで価値があると言っている人もいた。

この三つは、人一般について言及しているという点で共通している。

しかし私は、他者の価値を肯定するのと同じ条件で自分を認めることはできないと思っている(それがこの問題の一番難しいところだと思う)。

 

これは構想だが、何もせず部屋に転がっている状態の私が生み出しているものについて考えて覚えておくということはアリかもしれない。(?)

思考の途中ではあるが、とりあえず考えたところまで。